​田中達也&野本立人 インタビュー

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合唱に逆風の吹き荒れた2020年春、一人の作曲家が「歌う人のために木を植えたい」という思いで『合唱』という作品を書きました。一人の指揮者がその作品と出会い、「コロナ禍で新たに生まれるものもある」と信じ、作品を終曲に据えた合唱組曲を委嘱しました。そうして完成したのが、田中達也さんの混声合唱とピアノのための『声が世界を抱きしめます』です。ひぐらし団員でもある作曲家、田中さんと指揮者、野本立人さんに、この作品がなぜ生まれたのかを聞いてみました。(聴き手:小国綾子 2021.06.20)

 

■「木」を植えておきたい

 

――田中さんが、コロナ禍のたぶん最もしんどい時期に書いた『「合唱」―混声合唱のための』(詩・谷川俊太郎)を、36人の参加によるテレコーラス初演(ピアノ:薄木 葵)として動画公開してちょうど1年と1日が経ちました。どんな思いであの作品を書いたのですか。

 

田中:当時、コロナ禍で「普通のこと」が次々にできなくなっていました。みんなが何かを背負うことに躍起になっているように見えました。そこから少し距離を置き、自分のために何かやろう、と考えたのが出発点でした。

 僕は「合唱界を背負う」なんてガラじゃない。でも、自分のためだったら何かできるのではないかな、と。それで曲を書くことにしたんです。

 詩は、『声が世界を抱きしめます ─ 谷川俊太郎 詩・音楽・合唱を語る』(東京学芸大学出版会)に収録されている谷川さんの『合唱』。この本をだいぶ前に買ってからずっと気になっていた詩だったので、もう、これしかないだろう、と。

 

――〈ひとりで歌っています 小鳥のさえずりとともに〉から始まり、〈みんなで歌っています〉となり、最後は〈合唱の声は人間を超えて 宇宙の始まりに近づきます〉というこの詩、コロナ禍では特別な意味を持ったと思います。私自身、このテレコーラスに参加し、〈ひとりで歌っています〉と本当に自室でひとりぼっちで歌い、〈みんなで歌っています〉をひとりで歌わなければいけないことに泣いてしまったりしました。

 

田中:そうですね。あの詩はコロナの前からいつか作曲したいと思っていましたが、コロナの渦中で、「これはやっぱり今、歌うべき詩だ」と思いました。ただ、曲そのものが何かを背負ってしまうのは避けようと心がけました。曲が何かを背負ってしまうと、歌う時につらくなってしまうから。

 それで、できるだけ三和音を中心に、シンプルに音を運んでいく作品にしました。楽語もほとんど書きませんでした。最低限の強弱やテンポ指示だけに留めました。

 

――リモートで歌われることを意識して書いたんですか?

 

田中:いいえ。あの時期、テレコーラスならではの魅力を追求した作品を書いた方もいらっしゃいましたが、僕のこの曲はそうではありません。むしろ、いわゆる“リモート映え”はしないと思います。リモートだと合いにくいところも多いんです。僕はこの作品を「木」だと思っていて……。

 

――木、ですか。

 

田中:いつかコロナ禍が落ち着いて、一緒に歌えるようになった時のために、歌う人たちのために「木」を植えておきたい、と思ったんです。

 

■シンパシーに賭けて

 

――あの頃、音楽家は手足をもがれたような状態だったと思います。そんな時、田中さんがせめて自分のために何かやろう、歌う人たちのために「木」を植えよう、とこの曲を書き、しかし、この曲に何かを背負わせたくない、と願われたことは、胸に刺さります。テレコーラス作品として動画が公開(初演)されたのと同じ2020年6月19日は、合唱団ひぐらしにとっても忘れられない日です。

 

野本:コロナ禍で約2カ月間、練習休止期間をおいた後、“お試し”という位置づけで初めて練習を再開した日ですね。運営メンバーとしては「本当に合唱ができるだろうか」という状態でした。もちろん、マスクし、お互いの距離を取り、消毒をするなど感染予防対策を万全にすれば「できる」とは信じていました。でも、そういう「できる」かどうか以上に、声をかけた時、団員は集まってくれるだろうか、団員に負荷をかけないだろうか、それを案じました。

 

――普段より短い、正味小一時間くらいの練習用に用意されたのが、大中 恩さんの『わたりどり』と、他ならぬ、田中さんの『合唱』でしたよね。

 

野本:あの時期に再開しても、集まる人数は半分を切ってしまうだろう、と覚悟しました。それでも歌い続けることには意義があるよね、と実感できる時間にするために、どうすればいいんだろうと悩みました。あまり負荷の掛からない曲で、集まったみんなが「歌えてよかった!」と思える作品は何か、と。

 それで、前々から練習していた『わたりどり』に加えて、田中さんの『合唱』を選びました。僕はひぐらしのメンバーの、田中さんに対するシンパシーに賭けていたんだと思う。「田中さんの新作をリアルで歌えるよ」と声をかけたら、歌いたくてやってくる人がきっといるだろう、と。

 

■僕自身がどこか救われていた

 

――私もそう感じた一人ですから。

 

野本:あの作品を実際に集まって歌えば、必ずや心が動かされるだろう、と確信していました。一緒に歌えることはこんなに大切なんだ、とみんなが感じるに違いないと。だから意図的にこの作品を、あの夜に用意したんです。

 あの人数で音になる喜びを味わえた。それが大切だった。ひぐらしが再び立ち上がる原動力の一つがこの曲だと感じましたね。

 

――結局、2020年6月19日、『合唱』は動画公開の形でリモート初演され、まったく同じ日、合唱団ひぐらしの記念すべき再開の夜に、リアルでも演奏されたわけですね。なんだか不思議な巡り合わせを感じます。

 

田中:あの夜、僕は初演動画をYouTubeやTwitter、ブログにすべて予約投稿し、ひぐらしの練習に臨んだのでした。懐かしいな。

 

――この動画公開と同じ時期、カワイからの楽譜のダウンロード販売が始まりました。田中さんは、より多様な合唱団のニーズに応えようと、女声、男声、同声2部版も作りました。つまり、どんどん「木」を植えていこうとしたんですか?

 

田中:そうですね。最初に混声版を作った時は、自分の中だけの小さなプロジェクトでした。でも、その後はどこか「責務」のようなものも感じていた気がします。コロナ禍でこの曲を書いたことで、僕自身がどこか救われていたんだと思います。

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■木が5本植わっている、それだけでもいい

 

――野本さんが、合唱団ひぐらしのために『合唱』を含めた組曲を書いてほしい、と田中さんに頼んだのはいつだったんですか。

 

野本:実は、全然覚えてないのです。もちろん、田中さんが「あれは単曲で完結しているんで」と嫌がったら、すぐに引き下がるつもりでした。

 コロナ禍は、合唱だけではなく、音楽を含む対面のパフォーマンスの機会をことごとく奪っていたでしょう? 僕は『合唱』という作品と出会って、「コロナ禍で生み出せるものもあるんだ」と思った。この作品に一番強く感じたのはそのことだったんです。逆説的だけど、コロナがあったからこそ生まれるものもあるよね、と。

 

――どんなふうに田中さんに提案したんですか。

 

野本:実は谷川俊太郎さんにはもう一篇、『合唱』という古い詩があるんです。〈遠くの国で物のこわれる音がして 幾千万のちりぢりの会話が 終日僕を苦しめる〉という詩句で始まる。〈その午後 未来は簡単な数式で予言されそうだった〉という言葉に続いて、〈そしてその午後 合唱という言葉が妙に僕を魅惑した〉という言葉で終わる詩。1950年の作品です。

 

田中:『十八歳』という詩集に入ってる作品ですね。僕も詩集を持っています。

 

野本:これを読んだ時に、〈遠くの国で物のこわれる音がして〉とか〈未来は簡単な数式で予言〉とか、まるで今のコロナ禍を予言しているように思いました。だから、今回生まれた『合唱』を終曲に置き、この詩を『合唱1950』という曲にして冒頭に置き、組曲にしたら素敵じゃないかな、と。それが僕のイメージでした。フリーハンドで委嘱曲をお願いするにしろ、僕は僕のアイデアをちゃんと伝えようと思いました。

 

――ちゃんと伝えられる関係、ということなんでしょうね。コロナ禍であのように生まれた『合唱』という特別な作品だからこそ、「組曲にして」と頼むのは勇気がいったでしょうに。

 

野本:僕も音楽家だから、外に向けて表現したい人間なのだけど、致命的なことに、僕は曲も詩も書かない。本当の意味での第一制作者になることはないんです。そんな僕にできることは何だろう、と考えたら、そういう仕掛けをつくったり、提案したりすることだという意識が強くあるんです。

 だから、自分じゃ作れないから、思いついたことを作れる人に伝えるのは、自分の欲求であり、自分の使命でもあると思っているんです。

 

――田中さんは『合唱』を組曲や曲集のうちの1曲にしてしまいたくない、というような思いはなかったんですか。

 

田中:それはなかったです。むしろ「それは、ありだな」と思いました。

 ただ、僕も詩集『十八歳』におさめられた『合唱』という古い詩は知っていましたが、今の空気感とは違うんじゃないかと思いました。だからこれに曲を書く、というのはちょっと自分の中ではぴんとこなかった。むしろ僕は「もっともっと木を植えたい」と思いました。

 

――「もっと木を植える」?

 

田中:ええ。僕にとっての“組曲”の定義は、もしかしたら、ほかの作曲家の方と違うのかもしれない。それぞれの曲のモチーフをほかの曲の中で生かしていない作品は、僕にとっては“組曲”ではないんです。正直、『合唱』のモチーフを使って、いくつかの曲をつくり、組曲にすることは可能だと思いました。でも、僕の心情がそれを許さなかったんですね。

 

――可能だったけど選ばなかった、と。それは『合唱』を書いた経緯ゆえですか。

 

田中:もちろんそれもあります。というか、そういった経緯があることをなるべく誰にも気取られない作品にしたかったんです。

 

――つまり「曲に何も背負わせたくなかった」と?

 

田中:そう。だから、誰にも気取られないよう、なるべく自然でありたかった。自然に見えるアウトプットをしたかった。だから、“組曲”ではなく“曲集”にしよう、と。木が、5本植わっている。それだけでもいいと思ったんです。

 いつかコロナ禍が終息した時、それでも曲は残るので。人々からコロナの記憶が薄れていった時にも、歌いつがれる作品であってほしいと願いました。

 

  • 「遠い調に旅をする」ための5篇

 

――今回は5曲の曲集となりました。テキスト選びはどんなふうに進めたのですか。

 

田中:今回、詩を選ぶのに、谷川さんの詩集を20冊ほど買い足しました。我が家の詩集棚におさまらなくなって、床置きしています。読んで、読んで、読んで、読んで……そうして選んだって感じです。

 

野本:でも選び終えたのは早かったですよね。去年の暮れには「詩は決まりました」と言ってたもんね。

 

――なぜ、5曲、だったのですか

 

田中:実は調性に理由があります。『合唱』の調はAs durです。だから、そこから一番遠い調であるD durから1曲目を始め、最後にAs durに帰結するような音楽的な構造を考えました。そうなると、4曲だけだと遠い調に旅をするのが忙しくなってしまう。1曲の中で何度も転調するのも大変なので。音楽的なつながりをつくるために、今回は5曲必要だったんです。

 

――「遠い調に旅をする」って面白いです。なぜそう思ったのですか。

 

田中:言葉にすると陳腐かもしれないけれども、谷川俊太郎さんの言葉と音楽で、世界を見回してみたくなった、とでも言うんでしょうか。

 調性については、一つだけ予想外だったことがあります。それは4曲目の『海の比喩』。最初の構想ではH durで終わるつもりだったんですが、書いているうちに転調し、自然と最後はC durになりました。これはもう、海の引力のせいではないか、と思います。海をテーマにしたテキストの引力だなと。

 

――今回の曲集はディヴィジョンがまったくありませんね。それは最初に作曲した『合唱』がそうだったからですよね。

 

田中:ええ。『合唱』で作った音楽的構造、そして「歌う人のために音楽の木を植える」というコンセプトにそろえるため、ディヴィジョンは書かないと決めていました。

 

――ところで詩はどんな順番で選びましたか。

 

田中:まず1曲目の『陽炎』です。次に2曲目の『窓のとなりに』と4曲目の『海の比喩』が同時。一番最後が3曲目の『飛ぶ』です。というか、実は3曲目は、最初は別の詩を考えていました。それは『道』という詩。〈その道は誰の道〉で始まる、比較的有名な詩です。でも、5篇の詩を並べてみると、何かしっくりこないなあ、と。それで結局、『飛ぶ』に替えました。

 〈あのひとが空を飛んだ とうとうほんとに飛んでしまった〉という言葉に、「不在の記憶」がそこにある気がしたんです。空を飛んだ「あのひと」は生きているか死んでいるかもわからない。ただ“不在”。

 コロナ禍を意識するような詩を選ぶつもりはなかったのですが、こういう言葉で何か寄り添えるのであれば、少しだけコロナ禍を意識した言葉を意図的に置いてもいいかな、と思って。それとは気取られないだろうから。

 

――『陽炎』が最初に選ばれた、というのはちょっと驚きました。実は私は4曲目の『海の比喩』が実は最初かな、と想像していたから。今回、新しい楽譜が1曲目から曲順に合唱団に届けられ、最後に4曲目の楽譜をいただいた時に、私の心の中でこの曲集が動き出した実感がありました。この4曲目の後に attacca で『合唱』を歌うことを想像し、ぞくぞくしました。と同時に、田中さんにインタビューしなきゃ、と突然思いました。このままだと、私も含め、合唱団ひぐらしはきっと「わあ、どれも良い曲だねー」と歌って終わってしまう。けど、それじゃもったいない。そんなの嫌だ! と。この曲集のこと、私はもっと知りたいし、みんなもきっとそう。みんなで知って、感じて、それを音にして、一緒に歌いたい、と思ったんです。

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■書きそうで書かなかったもの~『陽炎』

 

――なぜ『陽炎』を、1曲目のテキストとして最初に選んだんですか。

 

田中:僕が一番共感したのは、〈刻々にくり返す波として私は生きている〉という言葉でした。だって、みんなそうじゃないですか。誰にも大切な生活がある。それぞれの暮らしを必死で生きてきた。これまでも、今も。

 この言葉にすごく賛同したから、最初の構想では、バッハの平均律プレリュードからどこかを引用することを考えました。波のように。〈波として私は生きている〉と歌い終わった後に、バッハのプレリュードのどこかのフレーズが鳴ればいいなあ、と思ったんだけど。やっぱりわざとらしすぎるなあ、と考え直しました。

 だからちょっと、タラララタラララという、37小節目からのピアノ右手なんかは、バッハの1番のピアノっぽいですよね、そういう痕跡を残しているんです。Bachは、ドイツ語で“小川”の意味だから、川が海につながり波になって……みたいなことを連想していたんです。

 

――〈刻々に繰り返す波〉という言葉から音楽のスタイルが生まれたんですね。

 

田中:この5曲の曲集は決して短くない。この「長距離走」を前に、みんなを開かせたかった。みんなの目も耳も開かせる。聴く方も歌う方も全部開かせる。ピアニストも指揮者も。ということで、言葉の多い詩を選んだんです。

 〈波として〉のところのピアノの左手は、ちょっと波というか船みたいな感じにして。

 

野本:ほどよく背筋の伸びた歌だからね。音楽的にはね。ぴんとしているわけでもなく、でもすっと立っている音楽だと思うのね。だからこれを冒頭に置いたことによって、これから5曲を歌いますよ、という軽い決意が見える。でも、居丈高では決してない。そのあたりの落としどころが良いなあと思いました。

 

田中:そういう意味で、こういうスタイルの作品って今まで書いてきてないので。

 

野本:これは確かに、僕も意外だったね。モチーフも、伴奏も。意外なものが来たな、と。

 

田中:今までの自分の中にはなかったし、書きそうで書かなかったものを書いた感じです。

 

――合唱団員としては、『合唱』という愛おしい作品があって、あれを中心に組曲ができるらしいよ、くらいの情報しかなくて。そこに最初にでき上がってきたのがこの楽譜でした。私もそうですが、「えっ!」と思った人は結構いたんじゃないかと思います。

 

野本:確かにね。今回は1、2、3、4曲目の楽譜がちゃんと曲順に仕上がって来たから、よけいにね。なんか、週刊漫画の連載を見ている感じ。しかも、結末の分かっている連載だもんね。どうやってあそこにつながるんだろう、って。だから4曲目がきた時、こう来たかあ! と。この曲から attacca で5曲目にいくんだねえ、みたいな。

 

――4曲目の楽譜が届いた翌週の金曜日の夜、初めて、4曲目から5曲目に attacca で入った時、感無量でした。ああ、この瞬間をずっと待ってたんだ、と。

 

■そこここで誰かが歌ってる~『窓のとなりに』

 

――次は、2曲目についてお話しください。

 

田中:これはもう、ソングにしようと思って。普通に有節の形で。詩にそれがすごく見えるんですよ。ぱっと見える。だから、これはもう思ったことを書いただけなんです。

 

――2曲目はソングの形で書きたい、と思ったのではなく、この詩がそういう顔をしていたから、有節歌曲の形になったのですか?

 

田中:そうですね。全部ソング的な親しみを持っている必要はないと思っていたんですけど、この詩はぱっと見てソングだ、2曲目だし、と。

 最初は、mollの音のままで曲を終わらせるつもりでした。でも、〈人から汗がにおってる〉とか〈そこから朝がやってくる〉って、やっぱり希望ですよね。

 〈朝がやってくる〉なんて言葉にはやはり、この1年間のコロナ禍のことを思わずにいられない。そんな思いは、作曲者の心の内に留めておけばいい話なんですけど、でも、ずっと考えるんですよ。〈朝がやってくる〉とか〈そこでも誰か歌ってる〉とか。

 歌ってるんですよ、誰か。だからここ、思わず2回繰り返しちゃった。ここを2回繰り返しにしたのは、これを作曲したときの、数カ月前の僕のリアルな思いの表れだったんだと思います。

 

――この楽譜と出会った日のことはよく覚えています。歌いたいという気持ちを自然と引き出してくれる、すごく強い旋律でした。次に歌うのを1週間待てなくて、家でピアノを弾くんだけど、こんな調じゃ♭が多すぎて弾けないから、半音上げて弾いたりして……。

 

野本:わははははは。

 

田中:〈山には誰かかくれてる 山から風が吹いてくる〉というあたりは、シャンソン的なコード進行なんですよね。さすがにプーランク先生の向こうを張る気はまったくないんですけど。(注:プーランクはいわゆるシャンソン的な歌曲を多く作曲した)

 それと、練習番号Cのアルトとバスのユニゾンのところ。ここは本当は聞いて欲しいのは、ピアノの対旋律なんですよ。だから歌っていないパートの人たちは、ぜひ、このピアノの対旋律を聴いてほしいです。

 ちゃんと歌ってるんですよ。ピアノも。そこここで、誰かが歌ってるんですよ。人がいるんですよ。歌ってるんですよ!

 

――この詩『窓のとなりに』を選んだのは、「ここに人がいる」ということを大切にしたかったから?

 

田中:そう。それを信じたいんですよね。人の営みを信じていなかったら、僕は合唱曲なんて書いていない、と思うんです。

 

――本当にこの曲は文句なしに歌いたくなる。男声に〈そこでもだれか歌ってる〉と繰り返させるところが本当にいいなあ、と。でもここがあるから、この曲はソロで弾き語りとかできないですねえ。

 

田中:あはは、そうですよね。ま、あとで作るかどうかは別にして。そうそう。

 

■“不在”と“在”がぶつかり合う瞬間~『飛ぶ』

 

――では次、3曲目のことも。

 

田中:すごく観念的な話になるかもしれないですが、この曲ではピアノが演奏しているのが“不在”そのものなんですよ。

 最初、合唱とピアノ、交わらないじゃないですか。共通のモチーフをそれぞれが演奏して。ピアノの響きが残っている中で合唱が歌い出す。これを繰り返していく。つまりピアノは“不在”の象徴なんです。

 

――なるほど。実はこの曲で不思議に思っていたのは、accelerando がかかるところをピアノなしでやらせる意図はなんだろう、って。

 

田中:そう。ここをアカペラで、というのは最初からの構想でした。31小節目でピアノが曲冒頭のフレーズを弾いた後、響きが消えるまでペダルを踏み続ける。つまり、その後、練習番号Bではしばらくの間、合唱と響きがぶつかるんです。

 そこになにか“対峙”がある。人は〈いつあなたは捨てたの〉とピアノに向かって呼びかけるんですよ。でも“不在”は“不在”のままで居続けるので。laissez vibrer のピアノの響きが人間の声と混じり合うことで、“不在”(ピアノ)と“在”(合唱)がぶつかり合う。呼び合い、ぶつかり合う瞬間。ここが、コンテンポラリーといえばコンテンポラリーな瞬間だと思う。

 この曲集は、どの曲もほとんど三和音で書かれています。いわゆる普通の長短の世界だけで作られている。だからこの曲の32小節目が、一番コンテンポラリーな瞬間だと思います。

 

――これ、ピアノの響きは何小節ぐらいまで残ることを想定しているんですか?

 

田中:僕は十数秒残ると想像しています。かなり残るんじゃないかと。

 

――ってことは、〈いつ あな〉までは同じコードの中にいるけど、〈たは〉以降はもうぶつかりますよね。

 

田中:そう。この曲では、言葉の意味が和声の文脈とうまくマッチするように心がけて書きました。アカペラで歌った時にも言葉がみずみずしくあるように。〈あの哀しみ〉〈あの歓び〉という言葉は、ピアノがいない状態で語られるんです。なぜなら、ピアノは不在の象徴で、一方、〈あの哀しみ〉〈あの歓び〉は、そこに存在する人間たちのものなので。

 だから〈歓び〉も〈哀しみ〉もアカペラで歌う。しかも♩=138というこの、かなりの速さでアクセルを踏む。

 次に〈重みを?〉。ここは普通だったらレファラになるところが、レファ♯ラ♭。これは変位和音と言います。〈途方もない重み〉という重みを、この和声に乗せたかったのです。ここも言葉と和声を呼応させています。

 

――だから次のG durが気持ちいいんですよね。pで dolce と頭で分かっていても、ついフォルテみたいに歌い込みにいっちゃう。

 

田中:しかもレソラシですよ、移動ドでソドレミですよ。みんなの大好きな。

 

野本:やばいよね。

 

田中:でもここ、〈私は今日も空を見上げる〉は「見上げています」ではなく、「見上げる」なんです。「見上げています」だと“不在”に向かって話しかけているニュアンスがありますが、「見上げる」だから、空を見つめているだけ。でも、その人は“不在”をもまた抱えているのだろう、という解釈をしています。

 〈はだしの足をやさしい春の大地に埋めて〉の最後のピアノは、曲冒頭のパラララランのピアノをG mollに乗せてばらしたものです。

 最後の音は、ソプラノとアルトの離し方に特徴があります。長7度も離れている。少しすきまを大きくして、何かがふっと入り込んでしまうような余地を与えてみようと。

■普段の表情のままの海へ~『海の比喩』

 

――では、次は4曲目のお話を。5曲目の『合唱』の前にどんな曲が置かれるのか、ひぐらしのみんなが注目していました。その4曲目の楽譜が配られたのは6月11日金曜日夜の練習でした。最後のパーツがはまった感じに、みんな興奮しながらの譜読みでした。

 

 田中:4曲目は、和声としてはすごく簡素なんです。ただ、このテキストの言葉は、深く入っていくのがなかなか難しくて。旋律線を何回も何回も練り直しました。最初に書いた旋律は今と全然違うものでした。

 この曲は“人”と“海”という言葉に仕掛けがあります。「ひと」という言葉はすべて1拍目か3拍目、つまり強拍に置いてある。逆に「うみ」は弱拍から。小節線を越えるところも多い。もちろん、例外もところどころあるのですが。

 “人”と“海”と。“海”はすべてを包み込むような存在だから、音楽と言葉で“人”と“海”の対比を見せようと思ったら、このやり方しかないなと思ったんです。

 4拍目から1拍目に動くエネルギーってありますよね。海の計り知れないエネルギーを表現したいと思いました。

――この曲には2度転調があります。特に1度目の転調はちょっとはっとさせられました。

田中:実はここはもう少しシンプルにやろうと思ったんです。でも僕、実は、好みの転調パターンというのがありまして。『無伴奏混声合唱組曲「ミライノコドモ」』の1曲目『あのひとが来て』と合唱曲『心のなかで』は調こそ違いますが、同じ和声展開による転調なんです。

 今回の『海の比喩』もこのままだとまた同じ手癖になってしまう、と気づいて、これはまずい、とちょっと立ち止まって考え直し、それを避けようとしたら、こういう転調になりました。

 

野本:でも、この転調、むちゃくちゃイカしてるよね。ちょっと難しいけど。

 

田中:で、先の〈大時化と凪にもてあそばれながら〉なんですが……。

 

――ディミニッシュとマイナーの繰り返しのコード進行に、歌っていても「もてあそばれ」ちゃう感じ……。

 

田中:そう。減7と短和音の繰り返しの後、〈人は〉で、またミが半音低い変位和音。テナーのこの音がカギを握っています。このくだりは和声進行によって、なんともいえない混沌とした感じを表現しようとしました。

 合唱は〈人は、人は〉と歌いますが、詩にあるように〈旅立つ〉とは歌いません。実はここ、ピアノに〈旅立つ〉と歌わせています。52小節2拍目からのピアノ右手のモチーフに「た・び・だ・つ」と歌わせたんです。

 そして次のG durで、〈一組の箸と茶碗がいくつかの鍋が〉という生活の風景が出てきます。このあたりまで作曲したら、もうH durに戻ることはあきらめて、C durで終わらせようと決めました。本当はH durで終わったほうが次の『合唱』とのつながりはいいんですけど、まあ、C durでもつながりはあるので。

 

野本:でもこれ、C durで正解だと思うよ。

 

――実は私、このC durはひぐらしのために、あて書きされたんだと思った。ひぐらしの音を意識して書いてくださったんだな、と。

 

田中:練習番号EのC durのあたり、確かにそうですね。〈海というこの全いもの〉というところで、どストレートな和音が出てくるんですよね。ひぐらしだったらこういう音がするだろうな、と確かに意識して作曲していました。ユニゾンの〈だがそれらよりさらに深く強く〉とかも。

 

野本:あはは、読まれている。ちょっと悔しいよね。

 

田中:あとは〈美しいもの〉を音楽で表現していきました。〈飽くことなく……〉で、ピアノの左手にバスの半音進行が出てくる。こういうところも〈美しいもの〉なんですね。また、合唱で〈美しいもの〉と歌った後、ピアノが右手でC durのなんてことのないスケールを歌うんですよ。ドシラソファミレド、と。これを思いついた時、ああ、今回はもうこれしかないと思いました。C durのスケールを経て、海はまた普通の姿に戻っていくのです。

 実は、三善 晃先生の『交聲詩 海』のⅢ章も、最後がC durでばーんと終わる。でも、あの『海』はものすごいエネルギーをはらんだ海です。宗 左近さんの詩自体もエネルギーに満ちあふれています。

 でも僕は、『海の比喩』で書かれている“海”は、“ハレ”でない海。普段の表情のままの「海」としました。C durのニュートラルな感じ。海のエネルギーの象徴ではなく、「そこにあるもの」の象徴として選んだんです。

 

■主題を言葉で歌うときには

 

――それは、詩に〈一組の箸と茶碗が……〉と、暮らしが出てくるから?

 

 田中:そうです。やっぱり、ここにも生活があるんです。『海の比喩』に描かれている海は、エネルギーを爆発させ、時に人間に脅威を与えるような「一瞬の海」の姿ではなく、「普段の海」だと思います。そんなふうに生まれた作品です。

 曲の構成としては複合三部。すごくシンプルです。70小節からのユニゾンで始まるフレーズも、ピアノの和音進行は曲の冒頭、歌い出しの主題に出てくるものです。かなりシンプルに書いています。海が存在する、そこに「在る」ということを、詩人の言葉で書くとこうなる、という詩だと思うから。

 だからこの曲で、〈人が海を……〉と歌う主題は、メゾピアノなんですよ。フォルテじゃない。ピアノにはフォルテやメゾフォルテを与えていますが、実は合唱が言葉で歌う主題はメゾピアノなんです。僕の中では「主題を言葉で歌う時にはフォルテにしない」というのは大事なんです。人の暮らしがここにある、「普段の海」がここにある、ということを大切にしたいので。

 

――4曲目を歌い終えて、attacca で5曲目の『合唱』を〈ひとりで歌っています〉と歌い始める時、合唱団の歌い手の心にいろいろな感情がわき起こっているように感じます。「やっと戻ってこられた」と感想を述べた人もいました。私は、〈ひとりで歌っています〉と本当に独りで歌うしかなかった1年前の日々の記憶がよみがえって、胸がいっぱいになりました。

 

野本:僕は「ああ、ここに戻ってくるために、この時間があったんだなあ」って思いました。

 

■世界の解像度が上がり、豊かに~『合唱』

 

――だから、5曲目に戻ってくるために、暮らしの中にある“海”を歌うことが大切なのかなあ、と今のお話を聞いて感じました。

 

田中:実は当初の構想だと、4曲目はもっと爆発して終わる作品を書こうと考えていたんです。でも、途中で、そうじゃないなあ、と。

 なぜなら、4曲目を爆発したエネルギーで終わると、5曲目の『合唱』が鎮魂の時間になってしまう。そうはしたくなかったんです。『合唱』は“海”のエネルギーを静める場ではなく、他の曲と地続きとしたかった。地続きにできるギリギリが、この4曲目なんです。だから歌にフォルティシモを書かなかった。いや、〈飽くことなくくり返し〉はユニゾンのフォルティシモですが、これがギリギリかな、と。この5曲全部の世界が地続きのままで、『合唱』にたどり着いてほしい、と。

 ……と、こんなふうにしゃべっていると、この作品は僕の定義の“組曲”には入らないけど、もしかしたら、かなり“組曲”に近い作品なのかもしれない、と今思いました。

 

野本:これ、普通の人なら“組曲”っていうよ。作曲の経緯も含めてね。

 

田中:そう、かなり近いですよね。でも、この5曲のつながりを“組曲”ではなく、あえて“曲集”という言葉でつなぎとめておくことで、もう少し何か、ガチガチにならないでくれるかなあ、と。「ひぐらし」という合唱団の良さが発揮され、良い音が湧き出してくるんじゃないかな、と期待しているんです。

 

――それはうれしいお話ですね。こうして5本の木を植えてみて、田中さんにとって、昨年の『合唱』と今年の『合唱』は、意味合いは違ってきていますか?

田中:書き手としての僕は、『合唱』という作品からむしろ遠ざかったのかもしれません。昨年春は、この曲を書くことでなんとか自分を合唱音楽につなぎとめたような面もありました。でも、今こうして合唱活動が戻ってきたことで、もちろん、この曲はまだ特別な存在ではあるけど、それでも少し遠くなりました。

 この4曲が現れてくれたおかげで、『合唱』という曲を書いて良かったな、という思いが何倍にも増幅されました。

 僕は「何かを知ることは世界の解像度を上げること」という言葉をよく語ります。昨春、『合唱』という曲がぽんと現れた時よりも、今、世界の解像度が上がり、豊かになったことを実感しています。だから、頑張ってきてよかったなあ、と思います。

 

――田中さんのお話を聞いて、私は、ひぐらしのみんなにどの曲が好き? どの場面が好き? って聞いてみたくなりました。「木を5本植える」というのも、同じ杉の木を整然と並べて植えたのではなく、いろんな木を植えて、豊かな雑木林にしていただいた印象があります。この雑木林、みんなで大事に育てられたらいいなあ……。

 

野本:本当に。豊かな森になるといいね。

 

(了)