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嫁ぐ娘に ー 野本立人にとっての「三善晃」

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(インタビューは6月2日、練習後に行いました)

 

 ――野本さんの、三善作品との最初の出会いはいつですか。

 

 ◆高校生の時です。当時、僕はすでに「合唱の虫」でした。でも当時、三重県に住んでいましたから、東京のように演奏会がたくさんあるわけじゃない。合唱を聴くにも、レコードかFMラジオ放送くらいしかなかった。一生懸命、ラジオからエアチェックをし、学校にあるレコードを片っ端から聴きました。クラシックも合唱も。

 そんな中で、「わあ」って思ったのが、三善先生の『女声合唱のための「三つの抒情」』だったんです。それが三善作品との最初の出会いです。

 僕は高校生で「音楽家になる!」と心に決めましたが、その時、目指したのは声楽家ではなく、合唱指揮者でした。当時、人に理由を問われ、「混声合唱も男声合唱も自分で歌えるけど、女声合唱は歌えないから、指揮するしかないんだよね」と答えたのをよく覚えています。そのとき頭をよぎったのも「三つの抒情」でした。

 だから僕は、これを振りたいから指揮者になった、ということなのかもしれません。

 

 ――『合唱組曲「嫁ぐ娘に」』との出会いもその頃?

 

 ◆そうです。たまたま部活の先輩の中に、東京六大学の演奏会のレコードを持っている人がいて、レコードを貸してくれました。その中で確か東大の柏葉会が「嫁ぐ娘に」を歌っていた。「ああっ、三善先生の作品だ!」と思って聴いて、うわあ、なんだこれは!と。

 だって、「三つの抒情」は確かに難しいけど、でも美しいし、高校生にも分かり易いじゃないですか。でも、「嫁ぐ娘に」は正直言ってわかんなかった、最初。なんだろう、って何回も何回も聴き返しました。

 調べてみると、学校にも当時、「嫁ぐ娘に」を収録したレコードが2枚ほどありました。それがビクター盤(田中信昭指揮、東京混声合唱団)と、東芝盤(浅井敬壹指揮、日本アカデミー合唱団)。それらも散々聴きました。

 そうこうしていたら、今度は、若杉弘さんが日本合唱協会(日唱)で演奏したレコードを手に入れました。「あ、俺、これが一番しっくりくるわ」と思ったのを覚えていますね。

 

 ――「嫁ぐ娘に」を歌い手として歌ったのは、いつが最初ですか?

 

 ◆高校を卒業し、田中信昭先生が主宰していた「唄う会」に参加しました。ちょうど浪人中でした。翌年の演奏会のために、その夏に練習したのが、三善先生の「嫁ぐ娘に」の全曲と、林光さんの「原爆小景」の1曲目。それから「クレーの絵本」の第1集。あと、三善先生の「五つの童画」の1、4、5曲目でした。

 僕はその時初めて、「嫁ぐ娘に」を歌うチャンスを得た。だから、この作品の僕にとっての最初の指揮者は田中信昭先生でした。

 

 ――野本さんは合唱団ひぐらしで三善作品をたくさん振ってこられましたね。最初は『無伴奏合唱曲「おてわんみそのうた」』でした。

 

 ◆僕の中で三善晃は、絶対取り上げていかねばならない作曲家で、「今のひぐらしで、何ならできるだろう?」と考えました。それで、まずは入門編だよね、と。いや、「入門編」と言うには難しかったけど。そんなふうに選んだのだと思います。

 それからも、ひぐらしでは本当に頻繁に三善作品を取り上げました。それくらい僕にとっては大事な作曲家だったんです。『混声合唱曲集「木とともに人とともに」』も『混声合唱曲「小さな目」』もやりましたね。ひぐらし以外でも、「三つの抒情」は、僕が指導していた頃の共立女子高校の音楽部で、数年に1度の頻度で演奏してきました。だから当時の共立では、「三つの抒情」は楽譜を見なくてもみんな歌えるほどでした。

 

 ――まだやっていなくて、やってみたい作品ってありますか?

 

 ◆例えば、今はあまり演奏されていないけど、やらなきゃと思うのは、『混声合唱とピアノのための「カムイの風」』。アイヌの物語を描いた作品です。あとはやっぱり『混声合唱と2台のピアノのための「交聲詩 海」』ですね。

 

 ――今回、三善イヤーに「嫁ぐ娘に」を選んだのは何故ですか。

 

 ◆迷うことなく即決しました。理由は2つ。一つはひぐらしと作品との関係性です。僕は1998年の「いろは」でこの作品を振りました。その年のコンクールの課題曲が「嫁ぐ娘に」の4曲目だったので、コンクールでは昭さんがそれを振ってくれました。そして、ひぐらしは初めて全国大会に行きました。

だから、ひぐらしにとって、エポック的な作品なんです。

 もう一つの理由は、やはり、今の世界状況です。今も戦争をしている人たちがいる。そういう時代だということ。「戦いの日日」を含むこの作品をやるしかないと思ったんです。

 

 ――今回、演奏にあたって心がけていることは?

 

 ◆できるだけ過去の演奏に影響を受けず、楽譜そのものに忠実、演奏することです。他者を介在せずに、三善先生本人と語り合ってみたいから。「先生は本当はどんな音が鳴ると思って書いたんですか?」と、常に問い続けながら、振っています。

 

 ――三善先生とは音楽樹の関係でお付き合いがあったと聞きました。

 

 そうですね。でも最初に三善先生をお見かけしたのは、実は、田中信昭先生の「唄う会」の演奏会のときです。ちょうど東京芸大に入った年。その演奏会に三善先生が来てくださった。それが初の「ナマ三善」体験でした。

 印象的だったのは、演奏会の打ち上げがなんだか薄暗いレストランの立食パーティーだったんですが、その片隅で、三善先生が壁に頭をもたれかけながら、お皿にある食べ物をぼそっ、ぼそっと召し上がっていたんです。とても話しかけられず、ただ遠くから見つめ、「ああいう音を書く方はこんな感じなのか」と思いました。「あんな音を書くのだから、何か苦しみとか痛みとかを抱えておられるんだろうなあ」と遠くから想像するしかありませんでした。それが僕にとっての最初の「出会い」の記憶です。

 

 ――じゃあ、実際にお話をしたのは?

 

 ◆それは「音楽樹」が立ち上がってからだから、僕はもう30歳を過ぎていました。

 三善先生が上野の東京文化会館の館長でいらした時、「上野の森コーラスパーク」という催しを三善先生がやりたい、とおっしゃって。それで準備委員会を作ったんです。

 当時「音楽樹」は後発の音楽団体で、全日本合唱連盟などの先生方からは「いったい何をする気だろう?」と警戒されていました。それを三善先生も憂いておられたんだと思います。「一緒に手をたずさえてやっていきましょう」とおっしゃってくださった。

 それで文化会館でアマチュアの合唱の祭典のようなイベントをやりたいから、とお声がけくださったんです。

 僕は「音楽樹」の代表として、準備委員会に加わりました。その時、「三善先生、この際だから、このイベントのために、何か愛唱歌になるようなものを作っていただけませんか」と提案したら、そこで生まれたのが「木とともに人とともに」という作品だったんです。

 だから、あの作品については僕、思い入れが強いんですよ。もっとも、僕はその直後に兵庫に赴任したから、準備委員を続けられずに、別の方と交代したのですが。

 でも、僕にとっては、三善先生関係では唯一、そして一番の自慢ですね。あの作品の誕生に関われたことは。

 

 ――野本さんは、その後も三善先生と交流が深かったのですか。

 

 ◆三善先生と最後にお会いしたのは2011年だと思います。「樹の会」が三善先生の作品展を企画していたのですが、東日本大震災の後、ホールが使えなくなって、演奏会そのものができなくなってしまったことがありました。

 それで、本番前夜のリハーサル予定か何かのために確保してあったホールで全曲演奏することになりました。栗山文昭先生や僕など近しいメンバーは「来られるなら来て」って言われたもので、そのホールに駆けつけたんです。

 そしたら、三善先生が、介護タクシーみたいな車で病院から直接ホールに来てくださった。もうお話もほとんどできなくて、寝たきりの状態から車いすで来てくださったみたいな状態でした。あれがお会いした最後だと思います。

 お亡くなりになったのは2013年。最後の2年間は僕はもうお目に掛かっていないんです。ただ、ご自身の意思表示もままならない状態となった最後の日々、三善先生の苦しみはいかばかりだったんだろう、って。

 それを思う気持ちが、実は僕の中の本当の暗闇なんです。

 三善先生がお亡くなりになったことを最初に聴いた時、僕は「ああ、ようやく開放されたんですね」と思いました。苦しみからやっと解かれましたね、と。あの時のことは忘れられません。

 三善先生が生前、お元気でいらっしゃった時に、もっと恩返しできれば良かったのに、という思いや、一番お辛い時期の三善先生を僕は何もお支えできなかったんだ、という思い。それが、とてもつらかった。いや、本来、お支えなんかできないんですけど。でも、とてもそれがつらかったんです。

 

 ――野本さんは「いろは」のちょうど1カ月前のタイミングで、先日の三善先生の「反戦三部作」の演奏会(東京都交響楽団定期演奏会)のパンフレットを、わざわざ抜粋して団員にシェアしましたね。あの演奏会は私も行きましたが、オーケストラの叫喚と悲鳴のような合唱という圧倒的な音響の中で、歌詞が聞き取れないことすらも表現なんだと感じました。

 

<注:丘山万里子さんの書いた『三善晃の「反戦三部作」』という文章のこと。丘山さんは、三部作の第一作目「レクイエム」に至る萌芽が最初に見られたのが、1962年の混声合唱組曲『嫁ぐ娘に』だと指摘している。中でも、第3曲『戦いの日日』の、「やめて やめて 世界中の町と村で母と子は叫びつづけた 焦げくさい空に手をさしのべて」がそれである、と。丘山さんは最晩年の三善氏にインタビューし、「波のあわいに」(春秋社 2006年)という本も出版している。>

 

 ◆本当にそうですよね。あの時代、人々の声はかき消されたんです。戦争中だって、声をあげていた人もいたはずです。だけど、みんな押し殺されてしまった。三善先生はきっと「今になって言ったって遅いでしょ」とおっしゃっているんだと思う。

 人々は、こんなに苦しかったんだよ、こんなに声をあげても誰も聞いてくれなかったんだよ、声をあげようとしたら、バカ言うんじゃない、殺されるぞ、と。そういう時代だった。戦争は、人間社会の最大の悪だと思います。

 あの文章を団内でシェアしたのは、そういうことを知っておいてほしかったからです。

結局、亡くなってしまった方の作品を歌う時は、ご本人に「どうですか」とは尋ねられないから、自分の中で楽曲理解を深めていくしかないんです。

 僕は、ひぐらしの団員1人1人に、三善晃という人間に近づいてほしいと願っています。三善作品という音楽ではなく、三善晃という人間そのものに。

 僕が一番興味があるのは人間です。人間の営みです。

 だから、音楽だけでなく、人間そのものに近づかなかったら、合唱する意味がない、と僕は信じているのです。

 

(聴き手:小国綾子)

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